ゔぇにおの日記(仮)

趣味とか日記とか 映画レビューと読書感想文多め

「アラーニェの虫籠 」 感想

今回はアラーニェの虫籠というホラーアニメーション映画です。当時映画館で見たときにすごく印象に残った作品です。うろ覚えで書いてしまおうかと思っていたのですが、DVDを購入したため見直してのレビューです。

 

概要

いわくつきのウワサが絶えない巨大集合住宅。気弱な女子大生りんはある夜、救急車で搬送される老婆の腕から、大きな虫が飛び出るのを目撃する。りんは過去にもこの地域で奇妙な虫の目撃例が多発していたことを知る。それは心霊虫と呼ばれ、古来から人知れず存在していた...。

公式のあらすじから引用しました。ちなみにアラーニェ(aranea:アラネア) ラテン語で蜘蛛の意味らしいです。

ホラーアニメ映画ってありそうでなかなか少ないと思います。アニメーションだからこそ追求できる恐怖表現を劇場で楽しめるのはなかなか貴重な体験です。私自身、一度劇場で見られたのは幸せでした。DVDで独りきりで見るのもまたいいですが。

 

ビジュアル

ホラーにはつきものですが、ゴアな表現が多くさらにタイトル通り虫がたくさん出てくるので苦手な方は多いかもしれません。ホラーとしては割と強めで、見返してみてもかなり怖かったです。

ただ、全体的に絵が綺麗で引き込まれます。恐ろしい絵は美しくもあり、目を背けられなくなります。見ているときは非常に怖いのですが、思い返すと綺麗な絵だったなと感じてしまいます。特にこの恐怖の中の美しさという点で、アニメーションならではの良さが遺憾なく発揮されているように感じました。虫のデザインも秀逸だったと思います。特に赤い蛾の描き方は不気味さと美しさの両立という点で非常によかったです。ホラーとは違いますが、ビジュアル面で空の境界の1章や5章に通じるものを感じました。

人物の目は涙丘(目頭のとこの赤い肉の部分)まで描き込まれており、生物であるということが強調されているように感じました。アニメ特有の"キャラクターの人間離れ"というか"二次元キャラっぽさ"のようなものを排除しているような。写実的というわけではないのですが、きちんと肉付けされた質感になっており、これがまた恐怖シーンを引き立てています。また死体の山のブヨブヨした質感もとても気持ち悪く、死体を積んで這い上がるシーンでのりんの必死さと辛さが痛いほど伝わってきてよかったです。

坂本サクというクリエーターが監督、作画、音楽等すべてを1人で手掛けた作品というのも触れ込みになっています。とても1人でつくったとは思えないクオリティーです。一人で作ったことをここまで全面に押し出すのは微妙ですが...(物語と関係ない裏話にあまり興味が持てないので)

 

ストーリー

一見難解に思えるストーリーですが、本筋は意外にシンプルだと思います。ただ説明が少なく、よくわからない箇所は多くありました。逆に言えばその辺りに考察の余地が多く、監督も多様な考察を歓迎しています。細かいところまでよく練られているので、あれこれ考えるのも楽しいです。文字を読むゲームが好きな人には特に刺さりそうな感じがします。ちなみに公式サイトでは考察のヒントとなるページが用意されています。

謎の検証 | ara-mushi

 

総評

ホラーとして恐ろしさを担保しながらも、美しい作品でした。とても面白かったです。

1回目見た後は正直ストーリーがよくわからず高評価できませんでしたが、何度も見返すとストーリーがよく練られていることがわかりました。初見と2回目以降では見える景色が変わってくると思います。

私も含め多くの人にとって、劇場で同じ映画を何回も見るのは時間的にも金銭的にも難しいと思います。そのためか、一本道で迷いようのないストーリーが多くなりがちに感じます。もちろん明快なストーリーも良いのですが、そればかりになると寂しいです。

そんな中、こういった自分で考える余裕を与えてくれる作品は貴重で、ありがたいです。

 

考察

以下、自分なりに考察したものを記しておきます。1回目の鑑賞後は物語がよく理解できなかったので、基本的な事柄から書いてみました。

 

考察 私が読み取ったこの物語の本筋は次のようになっています。主人公のりんは本当は住原りん(黒髪)だが、椎田りん(明るい髪)に成り代わっている。最後は住原が己が人を傷つけてしまう存在であることを認め、椎田の代わりに“落ち”ていく(=住原の死と椎田の覚醒)。住原に引き上げられた椎田は長い昏睡から目を覚ますも、街は既に心霊蟲(およびシハクヘイ)に覆われていた。なかなか絶望的な終わり方だと感じました。
苗字不詳のキャラが多い理由 時世や奈澄葉の苗字が明らかにならないのは、苗字を偽っている彼女が意識的に苗字を見ないようにしているからだと思いました(特に彼女の時世の名刺の持ち方は不自然に見えた)。
りん役の花澤香菜さんの演技(感想) 2人のりんの演じ分けや、モノローグのりんと第三者から見たりんの違いの表現がすごかったです。収録風景がDVDの特典で付いてきたのですが、そのあたりも言及されていて面白かったです。
心霊蟲に関して 心霊蟲は元々誰しもの内に存在する見えない虫で、何らかの理由で共存できなくなったときに具現化して体内から出てくる。この心霊蟲が体内から出てしまうと死ねない肉体になり、これを利用したのがシハクヘイ。巨大集合住宅の地下でシハクヘイ作製の人体実験が行われていた。40年前の奇病はこの実験の失敗(?)。死体の山は失敗作のプールだが、このうち一体が偶然シハクヘイと化した。
登場人物の役割 心霊蟲が体外に出て行く兆候を察知し、シハクヘイ化する前に殺害していたのが救済師。 終盤のシーンから判断するとシハクヘイを作製していたのは乳母車を押す女性(住原りんの母親?)。 斎恩は心霊蟲をシハクヘイに再び戻すことによりシハクヘイ倒そうと試みており(序盤のカナブンはその練習台だった?)、実際にあの石は青い蛾をシハクヘイに呼び戻してこれを殺した。
不明点1 不明なのが、彼女が何のためにシハクヘイを作製していたか。有識者と一緒に考えたいです。
不明点2 またどのように作製していたかもわかりません。心霊蟲と共存できなくなった人間も“救済”されるまでは普通に生活していたので、(1)軍での実験と同様の薬剤を知らないうちに乳母車女に注射されたか、(2)この地域全体にこの薬剤が散布されているか、(3)終盤りんを拘束していた機械で心霊蟲を追い出されたのちに記憶を消されて元の生活に戻されたか。シハクヘイが救済師亡き後急速に蔓延したこととから(1)、(2)が私的には有力ですが、(3)だと乳母車の中身が身動きの取れない人間だという描写とよく合い、死体の山もこの手法による失敗作のプールだと説明できます。恐らくこれらの組み合わせだったのでしょう。

 

 

アラーニェの虫籠

アラーニェの虫籠

 

映画「ポゼッション」感想

タイトルのPossessionには我々のよく知る意味から転じて悪魔に取り憑かれることの意もあるらしいです。キリスト教文化圏ではメジャーですが、日本だと取り憑かれる系のホラーって少ないような気がします。

よく知る人間が変貌して恐怖の対象になるというのは絶望的でいいテーマだと思います。小さい頃は青鬼ver.6で仲間たちが青鬼に変わっていくシーンとか、のびハザのお母さんがゾンビ化してるシーンとかがとても怖かった記憶があります。

 

ただ本作はホラーとしてはあまり怖くないかなという印象。私が注目したのはむしろ、父親の娘への愛です。恐怖シーンでも彼はほとんど怯むことなく娘と向き合い続けます。だからこそ恐怖表現としてはイマイチなのかもしれませんが。

私が好きなのは彼自身が彼なりに努力して悪魔祓いを試みるシーンです。単なる恐怖のみならず接近禁止という障壁もあった中で、娘を救おうという覚悟が感じられます。

ただあの母親はあまり好きになれません...。主人公が父親側なので、視点の問題かもしれませんが。

ラストシーンの後味の悪さはなかなかのものです。やはりこの手の物語は根本的には解決せずに終わる方がいいですね。日常生活から切り離せなくなるので。

 

なんとなくホラーとしては“奥ゆかしすぎる”印象を受けました。ゴア表現もなければびっくり要素もないです。この手の作品としては理不尽さが足りていないような...。実話に基づく話らしいのですが、だからといってそのレベルまで恐ろしさの質を落とさなくてもいいのになと思います。

この作品の目指すところがそもそもホラーとは違うのかもしれません。“恐怖”と“家族愛”が競合した結果どちらも中途半端になっている感じがしました。“大切な人”と“恐怖の対象”が一致している点では冒頭に挙げた2つの例と共通しますが、変貌した人間に救いようがあるかという点で決定的に感じるものが違います。この作品には絶望感がありません。

この辺は悪魔祓い系の宿命なのかなとも思いますが、同系統の他の作品ではどうなっているか気になります。

 

ポゼッション(字幕版)

ポゼッション(字幕版)

 

 

 

映画「Diner ダイナー」感想

鮮やかな色彩と藤原竜也に惹かれて見に行きました。予告編でもダイナーのデザインや演出が素敵で雰囲気がとても面白そうだったので、ワクワクしておりました。原作の漫画や小説を読むより先の鑑賞です。

 

独特な色彩が薄暗い中で美しくもドギツく、異常な世界観を際立たせていたように思います。また、衣装やメイクもド派手ですが、この色彩と演者の顔の良さによりよく馴染んでいました。どうしてもド派手なメイクだと“コスプレ感”が気になってしまうのですが、杞憂でした。特に真矢みき演じる無礼図(ブレイズ)が本当にかっこよかったです。

そして藤原竜也の演技も、期待通り最高でした。痛み、恐怖、怒りや愛を通じて、どこかぶっ飛んだ世界と日常を生きる我々とを強引に結びつけ、単なる傍観者でいることを許さないような生々しい演技だったと思います。

食事のための場所で殺し合いが行われるという設定もまた良かったです。うまく表現できませんが、食事という生きる為の行為と殺戮そのものが隣り合わせになった、生と死の狭間のような...。殺し合いそのものが生と死の狭間ではありますが、生命そのものの神聖さ、あるいはカニバリズム的な狂気(勿論カニバリズム要素はないです)が付加されたような印象を受けました。

 

独特な色彩や素敵な演出、ど迫力のアクションを是非劇場で楽しんで欲しい作品です。また、ストーリーにも考察の余地があり、人それぞれの解釈があると思います。

繰り返しになりますが、私のおすすめポイントは真矢みきです。カッコいいので是非見てください。

 

以下、疑問点や自分なりの解釈を折りたたんで記しておきます。原作から多少なり圧縮されているのか、不明瞭な点やすっと理解できない点もありました。

 

1.何がボンベロに身を呈してまでカナコを守らせたのか。
スキンの死からボンベロの感情が揺らいだように見えます。このシーンは彼女が目指すべき居場所を見つけ、覚悟を決めたシーンでもあります。彼女と歴代のウェイターを決定的に分けたのは恐らくここでしょう。ただこれがボンベロに響いた理由がよくわかりません...。彼女の料理に対する情熱がボンベロ自身の存在理由と重なるところがあったのだと考えてはいます。
2.デルモニコ殺しの犯人を記したメモはなぜ信用されたのか。スキンの残したこのメモが見つかってから、ボスたちの表情は一変し、コフィは大いに動揺します。このメモがここまでの影響力を持つのが不思議でした。特に決定的な証拠が明示されているわけでもない紙きれでなぜあれほど場が荒れたのか?コフィとしても言い逃れはいくらでもできたのではないかと思ってしまいました。
まずマテバがデルモニコを殺したのはあり得ないというコンセンサスと東西南北任意の組み合わせで談合が行われていないという前提が必要となってきますが、それらも明示されていません。
もしかしたら彼らは、真実にはあまり興味がなく手っ取り早く大ボスの地位を殺し合いで決めてしまいたかったのかもしれません。北の組織の準備の周到さからも伺えます。
3.ボンベロは生き残ったのか。
銃撃を食らいまくった上での最後の爆発からボンベロが生き残れたのかという疑問です。彼は最後カナコの営むグアナファトのダイナーに菊千代とともに表われますが、菊千代までもがあの爆発を生き延びられたのは不思議です。彼の生死により、私の解釈はさらに分岐します。
まず、普通に生存していた場合。無礼図が気絶する(死なない)程度の爆発なら彼らが生きていてもおかしくありません。この場合、本当に会いに行ったのでしょう。 ストーリーを通して、“自分の居場所”というのがテーマになっています。ぶっ飛んだ世界観ですがかなり現代的で普遍的な問題を提起しています。これに対するカナコなりのアンサーがこの映画の結末です。また、極限状態でボンベロがカナコに料理を伝授したシーンがそのまま活きてくる解釈でもあります。
次に、死亡していた場合。銃弾を浴びまくって上にあの爆発を生き延びるのは普通に考えるとタフすぎます。この場合、グアナファト自体が死後の世界のメタファーで、カナコも既に死亡していたとも考えられます。 カラフルな色彩はモノクロ人生からの解放、髑髏衣装の人々はそのままの意味で捉えることができそうです。カナコが明らかに仕事中なのにも関わらずカラフル集団が観光の案内を配るシーンは死が誰に対しても平等な存在であることを指すのかも知れません。またマテバの水死体に対するボートの女性の無関心も、カナコがこの時点で死んでいるならば説明できます。
ただこの場合“自分の居場所”というテーマが活きてこない感じがあり、あまりにも絶望的なシナリオになってしまいます。特に、ダイナーで働いている時点でカナコが死んでいたとする解釈は、全て夢オチということになり乱暴すぎます。考えすぎ感もあり、我ながらあまり正しくあって欲しくない解釈です。ただ、いずれにせよ上記のようなメタファーは活きているかもしれません。

映画「40」作品紹介・感想と考察

今日は日曜日にもかかわらず記録的な豪雨だったので、おとなしく引きこもって(定常業務)GYAOで映画を探すことにしました。あらすじが面白そうで、なおかつ雰囲気がよさげだったのでこの作品を見ることにしました。どの映画を見るかはいつも適当に決めていますが、雰囲気が好みかどうかは重視しています。

 

作品紹介

この作品の舞台は美しき混沌の街トルコ・イスタンブール

次の3人の主人公による群像劇です。簡単にいうと、空から降ってきた大金入りのカバンを巡る争奪戦です。

メティン:

タクシードライバー兼運び屋のトルコ人男性です。貧しい村の大家族出身で、虐待親父を刺し殺してイスタンブールに出てきた過去があります。カバンは元々彼がボスから依頼された荷物で、それを窓際に置いていたため落下させてしまいました。荷物を失いパニックになっていたところ、ゴッドウィルを轢いてしまいます。千鳥の大悟に似ています。

ゴッドウィル:

ナイジェリアからの不法移民の黒人男性です。幼少期に出会った金持ちの娘ジーナに恋心を抱いており、パリに発った彼女を追ってヨーロッパ行きの貨物船に乗り込んだものの、なぜかイスタンブールにきてしまいました。再びパリに向かうための資金繰りに励んでいたのですが、それが盗まれてしまい、盗人を探しているうちに偶然空から降ってきたメティンのカバンを見つけます。しかしその後たまたまメティンに轢き逃げされ、搬送先の病院でゼウダにカバンを盗まれてしまいます。

ゼウダ:

看護師の女性です。同病院の医師と結婚するものの、彼は女性関係のスキャンダルでクビになったため、彼女が一家の大黒柱となっています。ゴッドウィルの病室で大金入りのカバンを見つけ、盗んでしまいます。数秘学に関心を抱いており、タイトルの“40”をはじめとした数に注目した演出の由来となっています。顔がいいです。

 

感想

良い点

3人の主人公たちはみな魅力的な背景をもっていて、キャラがよく立っています。そしてそんな彼らの運命が複雑に絡み合った、よく練られたストーリーに仕上がっており、物語の断片が繋がっていく感じが良かったです。ゼウダがカバンを盗んだ後も様々な動きがあり目が離せない展開が続きます。おすすめできる作品です。

個人的にはイスタンブールの街の雰囲気も好きでした。雑多な感じの街(他だとムンバイとかリオデジャネイロのファヴェーラとか)が好きだったりします。

 悪い点

数秘学が演出として多々出てきますが、特に説明が丁寧なわけでもないので、なかなか理解しづらいところではあります。この要素が効果的に作用していた場面が少ないかなというのが正直な感想です。(ラストの信号機の演出は好きですが)

 

 

P.S.

頑張って書いた考察がなぜか消えてしまいました...。大した内容じゃないし復元も面倒なのでこのままで許して...。

劇場版 天元突破グレンラガン 紅蓮篇、螺巌篇 感想

GYAOで無料だったので見てみました。

TV版は未視聴です。

ちなみにグレンラガンキルラキルを足して2で割らない映画と形容されるプロメアは視聴済みで、今回そう言われる所以がわかりました。3つのうち2つを見たのでキルラキルについて解けるようになりましたが、ちゃんとキルラキルも履修しておきたいところ。

 

簡単に内容を説明すると、螺旋王により地下に押し込められていた人類の反乱の物語が紅蓮篇(前編)、さらに宇宙まで手を伸ばした人類とアンチスパイラルとの戦いが螺巌篇(後編)という感じです。

 

今回もストーリーの紹介はあまりせずに、好きなシーンをできるだけ挙げていきたいと思います。

 

1

カミナ特有の名乗り口上がシモンにも伝染し、合体したグレンラガンで共に名乗りを叫ぶシーン。(すでに前編中盤ですが、厳選した結果後半が重くなったからです)

このときのシモンの声が今までになく力強く、その後の戦闘シーンも含めてとてもアツかったです。やはり命を懸けて戦う者の名乗り口上は、ベタだけどカッコいいです。

しかしこのときすでにカミナは瀕死で、この直後に力尽きてしまいます。まさかカミナが死ぬとは思っていなかったので(ヨーコとのキスという露骨なフラグ立てはありましたが)、ショックでした。

ただ、死ぬ前にシモンへ「お前が信じるお前を信じろ」と伝えられたのは、お互いにとって救いだったと思います。(その後の展開を考えると、特に)

 

2

四天王3人との戦闘シーン

カミナとヴィラルはこれ以前に何度も対峙していて、因縁の関係になっていました。そんな中、ヴィラルがまだカミナを生きていると思い込んでいるシーンが切なかったです。ロシウとしてもやり切れない思いがあったと思います。

カミナは前述したようにチミルフとの戦いにより死亡したのですが、ヴィラルもその戦いに参加していて、チミルフがカミナに致命傷を与える場面も目撃していました。この場面で、大グレン団のメンバーたちはカミナの死を覚悟する描写があったのですが、それでもなおヴィラルはカミナが死んだとは思っていなかったのですね。ある意味、大グレン団のメンバー以上にカミナを信頼していたように見えました。カミナが致命傷を受けた後に、立ち上がってシモンと共にチミルフを討つシーンまで目撃していたら、彼がまだ生きてると思っても仕方ないと思うのですが、このシーンの直前でヴィラルはどこかへ吹き飛んでしまったのでそういうわけでもないと思います。

そしてその後、シトマンドラとヴィラルを前に、ロシウと合体したグレンラガンで、シモンが一人で名乗り口上を叫びます。ここの名乗りが本当にかっこよく、またカミナの魂を感じて大好きです。そして、ここでヴィラルはカミナの死を伝えられます。

残った2人とヴィラルが合体して(大グレン団のものとなった)ダイガンザンに挑み、敗北して散っていきます。そして爆散した機体の残骸のなか立ち尽くすヴィラルがこう呟きます。

「なぜ、俺一人が生き残る!」

このセリフ、爆死した四天王たちだけでなく、カミナの死に対してでもあると感じました。カミナの死を知ったときの表情からも、彼に対して敵意以上の感情を抱いていたことが読み取れます。それを踏まえると、非常に切ないセリフです。

 

ここまでが紅蓮篇です。

ここから先は螺巌篇のシーンです。

 

3

螺旋王を倒し、栄えていく街と共に成長した大グレン団のメンバーが紹介される場面。

特にシモン、ロシウ、ギミーとダリーのたくましい姿を見たとき、久しぶりに会った親戚のおじさんみたいになってしまいました。

また、ダヤッカはキヨウと結婚しているのですが、彼の幸せそうな表情が好きでした。彼非常にいいやつなので、幸せになってくれるとすごく嬉しいです。僕は“いいやつ”ってすごい好きで、それだけでも泣けてしまいます。(アニデレの武内Pとか)

また、シモンは街のシンボルとしてカミナの像を彫っています。彼がカミナの像を彫るシーンは紅蓮篇でもありましたが、そのときとは意味合いが全く異なっていて、うるっときました。街の名前がカミナシティになっているのもいいですね。

だからこそ、その像が暴動で倒されるシーンはとても辛かったです。螺巌篇の展開はとても早く、幸せな雰囲気は長くは続きません。

 

4

シモンとヴィラルの共闘、そしてアークグレンラガンとなり共に名乗るシーン。

敵対していた者との共闘はやはり胸が熱くなります。またヴィラルがすんなりと名乗りに参加できるあたり、カミナに対する想いを感じます。

螺巌篇のシモンの声、紅蓮篇と同じ声優さんとは思えないほど力強く成長しています。ほんと声優さんってすごい...。

 

5

キタンの最期のシーン。

死ぬのが怖くないわけじゃなくて、前に進むしかないことがわかっているからこその命懸けだと彼の口から語られます。これこそが彼の本質なんですよね...。

カミナを失ったシチュエーションと似ている分、ヨーコとしては彼の死は余計辛かったんじゃないかなと思います。

螺巌篇序盤に遡りますが、酒場で市民からの中傷にブチギレたメンバーを制止していのも彼です。このシーンからも彼のリーダーとしての資質が伺えます。

 

6

大グレン団全員での名乗り。

激アツでした。カミナのミームが全員に伝染しているのがアツいなと思いました。(語彙力喪失)

 

7

俺の嫁は宇宙一スイング!

この場面でこんなこと言えるダヤッカ、宇宙一の夫だと思います。宇宙最高の惚気がちゃんと地球にいるキヨウに届いて愛の言葉になっているのもいいですね。

 

8

ニアが消滅しそうになり、「もう少しだけ...」と呟くシーン。

やはりこうなってしまうことはわかっていたのですが、切ないシーンです。どこかでこの運命を忘れようとしていた自分がいたのですが、このシーンで思い出して泣いてしまいました。

 

9

エンドロール後に描かれるシモンの旅。

水不足の村に井戸を掘った際、見返りに花を咲かせてくれと頼むシーンが大好きです。あくまで穴掘りシモンとして、ニアの夢を叶えようとしているのが、最高に熱いです。

 

全体を通して、ロボット戦闘ものの主要な要素を押さえた王道を征く映画という印象でした。なんといっても戦闘シーンが激アツでした。声優さんの演技も素晴らしく(特にシモン役の柿原徹也さん、キタン役の谷山紀章さん)、音楽もかっこよかったし、作画も迫力のあるものでした。映画館で見られたら最高だったろうなと思うと、当時見逃したのが惜しい。そして、とにかくヨーコがエロい。紅蓮篇序盤は正直物語に集中できませんでした。エロすぎたので。さらに螺巌篇ではホットパンツ(?)がなぜかハイレグになっていて、下半身のどすけべ具合が大幅に強化されています。

ただ、螺巌篇は紅蓮篇よりも設定が複雑で展開も速く、若干わかりにくく感じました。特に物語の肝である螺旋力に関しての理解が未だに曖昧です。しかしTV版の全27話をまとめて映画2本分にしていることを考えると、よくまとまっています。TV版を視聴すればより詳細なエピソードまでわかるのかもしれません。

 

今回は映画2本分ということもありかなり長くなってしまいました。やはり好きなシーンの話はしたいのですが、書くのもしんどいので難しいところです。今後はもう少し書き方を変えるかもしれません。

 

 

 

月と六ペンス(金原瑞人 訳)感想

この本は最初に読んだときにかなり面白かった記憶があったものの、細かい部分が抜けてしまったので読み返してみました。改めて魅力を感じた箇所を紹介します。

 

簡単に内容を説明すると、「私」が出会った天才画家ストリックランドを追っかけまわした話です。「私」はこの物語の書き手となっています。

 

まず、「私」によるストリックランドの人物解説がちょろっとあるのですが、ここで「私」は彼に関する文献を用い、引用をきちんと示しながら論じているので、ストリックランドがあたかも実在した人物であるかのような錯覚に陥りました。当然文献も架空のものです。この作品の世界に吸い込まれたような感覚が心地良かったです。

 

“ここまでの話はすべて本筋には関係ない。”

というフレーズとともに、「私」とストリックランドの物語が始まります。ここまでバッサリ言い切ってもらうと心地よいです(本当に関係ないし)。さて、その本筋に関係ない部分にこんなフレーズがあります。

“誰の言葉だったかは忘れたが、人間は魂のために、一日に二つはしたくないことをしたほうがいいらしい。なるほどと思った私は、以来その教えを忠実に守ってきた。つまり朝がくれば起き、夜がくれば眠る。”

私はこのフレーズが大好きです。朝がくれば起きられる「私」が羨ましくもありますが...。この小説は超有名な傑作なので、いろいろな訳者さんのバージョンがあります。それぞれについて、このフレーズがどのように訳されているか確認したことがあるのですが、僕は金原瑞人さんのこの訳が一番好きでした。金原さんの訳はここに限らず、ユーモアと読んでいて心地よいリズムを感じられます。

 

この作品通して好きなのは、会話、特にストリックランドと「私」の掛け合いです。ストリックランドの言葉は簡潔でテンポが良いので読んでいて気持ちよかったです(語彙力の弱さは「私」により多少補われているようですが)。それは彼が情熱に取り憑かれた真っ直ぐな男であるが故です。もし才能がなかったとして、それでも絵のために全てを投げ出す価値はあるのかという「私」の問いに対し彼はこう答えています。

“「おれは、描かなくてはいけない、といってるんだ。描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」”

これは、一歩踏み出すのを躊躇うときに思い出すと背中を押してくれる大好きなセリフです。

 

それから、登場人物の描写が非常に的確でくっきりとしています。特に「私」による人物の心理分析は、ユーモアをたたえつつも数学の定理の証明のように鮮やかで、説得力があります。

 

ストリックランドのように生きたいなと感じつつも、やはり彼ほど義理人情と疎遠に生きるのは不可能だなと思いました。ストルーヴェに同情してしまったからです。

ストルーヴェは人情深く、どこか滑稽で、ストリックランドとは真逆に見える人間なのですが、彼には何と言っても“美”を見極める力があります。それ故に自らの平凡さを知っています。彼のプライドが著しく欠損しているのもそれが理由でしょう。本来ストリックランドとは相容れない人間なのですが、その才能が見えてしまう故に彼から逃れることができません。

ストリックランドに愛する妻を奪われた後、彼の描いた妻のヌードを見つけてしまい嫉妬と怒りに狂うも、その絵の“美”がわかってしまう故に絵を破ることができなかったシーンがとても切なかったです。人間として持つべき感情さえ、“美”の持つ力の前では許されなかったのです。

 

ストリックランドが最期に訪れた地タヒチで、この物語も終わりを迎えます。

彼はここでついに傑作を描きあげることができたのだろうと「私」は推測していますが、確かにそう感じました。そうでなければ、自分の欲望にまでストイックだった彼が最期にアタ(現地の娘にして彼の最後の妻)の前で涙を流すことはできなかったでしょう。彼に取り憑いた情熱からついに解放されたということを象徴しているように思いました。彼の抱えてきた苦悩や超人的な努力を思い出すと、彼を精一杯讃えたくなりました。なんかもうほんと、よく頑張ったなって...

 

改めて読んでみて、何と言っても面白く非常に読みやすかったと感じました。

また読んでいるうちにストリックランドの異常なまでの周囲への無関心が痛快に思えてきました。現実世界で彼のように生きるのは厳しいですが、もっと周りに縛られないで生きたいな〜という願いを僕の代わりに叶えてくれているような感覚がありました。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

東京カラオケまつりレポート

6/9(日)に文化放送ディアプラスホールで行われた東京カラオケまつり浜松町大会に出場しました。そのときの様子を覚えている限り記そうと思います。

東京カラオケまつりは東京の5つの地区で行われる予選大会5つとグランドチャンピオン大会から構成されています。それぞれの予選大会へは、DAMとも録音で収録された音源を元に行われる審査を通過した100名ほどが出場することができます。そして予選大会で入賞すると(27名ほど)グランドチャンピオン大会に駒を進めることができます。私は5つの予選大会のうちの3つ目、浜松町大会にエントリーし、運良く出場権を得ました。

東京と名のつく大会ですが出場資格に国籍や住所の制約はありません。全国からカラオケ好きが集まります。また、採点機能は使用しません。

 

12:20-13:00 受付

文化放送のビルの2階で受付をしていました。受付開始時刻以前に、屋外に氏名と歌唱順が貼り出されていました。また出場者に対して観覧のお客さんが同数ほどいらっしゃいました。参加費は5000円取られるのですが観覧は無料です。受付では歌唱曲(提出した録音と同じ曲)とキー、ワンコーラスの切れ目の確認をし、プログラムとカラオケボイスドリンク(まだ飲んでない)を受け取りました。

f:id:venioyonomori:20190613021728j:image

13:00-13:15 開会式

審査員4名の方と大会のプロデューサーの挨拶と大会の諸注意が与えられました。ここに記した時刻はプログラム上のものですが、実際は若干押していました。

13:15-14:55 第一部歌唱

参加者が105名いたので、40、40、25人で第一部から第三部にブロック分けし、その間に休憩を挟む形で順番に歌唱しました。つまり第一部では歌唱順1-40番まで方が歌います。私の出番は第三部だったので、まだ気楽に聴こうと考えていました。しかし、困ったことに40人全員が僕より上手かったのです。これは心が穏やかではいられません。「東京カラオケまつり」、なんとなく名前が間抜けなのでもっと門戸の広い大会なんだろうと思っていましたが、想像以上にハイレベルでした。歌唱以外のパフォーマンス重視の方もいるのですが(ベストパフォーマンス賞なる賞も用意されている)、それでも基本的な歌唱力の面で圧倒的に自分より上なのです。自分は特に衣装やパフォーマンスは用意していなかったのでそれこそ勝ち目はありません。このときは本当に帰りたかった。メリオダスと申します。

15:10-16:50 第二部歌唱

あまりにも自分より上手い人の歌唱が続いたので、なんかもうどうでもよくなってきました。思えば、ワンチャン入賞できると思っていたのが間違いで、とりあえず恥かかない程度に頑張ろうと思えるようになったので第一部のときより緊張は和らぎました。それから、大変失礼な話なのですが、他の方の歌唱をぶっ通しで聴いていたので流石に疲れてきました。

17:05-18:05 第三部歌唱

とうとう自分の出番が回ってきます。休憩の間に舞台袖に回り、儀式的にキーなどの確認を行い待機していました。自分の出番が来るとまずマイクテストも兼ねて名前と歌唱曲をステージ中央で宣言します。このとき、私の声は震えていました。緊張云々以前に陰キャなので、もっと堂々としたいなと感じました。ただ、マイクやスピーカーの質は一般的なカラオケのものとは段違いに良く、歌が始まると今までで一番気持ちよく歌うことができました。私は井上陽水の「心もよう」という曲を歌いました。無難ですし、感情も込めやすく、何よりワンコーラスが短いので非常に歌いやすかったです。

18:05-18:25 ゲスト歌唱

ゲストとして招かれたプロによる歌唱で蹂躙される時間がやってまいりました。はやぶさというユニット(「デュエルマスターズ」OP等担当)がいらしたのですが、やはり圧倒的な歌唱力でした。おまけにトークも面白く、まさにエンターティナーという感じでした。演歌ポップス歌謡曲と何でも歌えるユニットなのですが、特に演歌が素晴らしかったです。普段演歌は聴かないし歌わないのですが、これを機にチャレンジしてみようかと思いました。また、観覧だけならタダでプロの歌唱を聴けることを考えると、なかなか気前のいい大会だなと感じました。

18:40- 結果発表、閉会式

敢闘賞あたりなら審査員の気が狂えばワンチャンあるかもと思いながら発表を聞いていましたが、審査員が正気だったので入賞はできませんでした。審査員からの総評も頂きましたが、その中でも選曲について「自分の声質と自分の歌いたい曲はしばしば一致しない。客観的に自分に合った選曲をするとよい」というお話が心に残りました。実は私が歌った「心もよう」も、自分の中で一番上手く歌えるから選曲したのですが、練習してるときに飽きてしまい、モチベが上がりませんでした。ですが他の曲を選んでいても、結局上手く歌えず終いだったのかなと思います。大会のときはある程度割り切るか、自分の歌える曲を増やして自分に合う好きな曲を見つけるしかないのかなと感じました。

 

また、帰り際に審査員直筆の審査評をいただきました。デレステでよく見るような白封筒に入っていました。各項目(音程、抑揚、発声等)が5段階評価なのですが、私は3が多く、時々4、まれに5を頂く感じでした。コメント等、まるで私のクソザコメンタルを見透かしたかのようにかなり優しく書いていただき、冷静な自己分析とモチベ向上に繋がりました。

 

今後このような大会に挑戦するにあたって、歌唱力を上げることは絶対条件なのですが、それでも歌唱力での単純な勝負では勝ち目がないような気もします。何か突飛なパフォーマンスで会場を沸かせるとかができれば良いのですが、これもシャイな私にはなかなか難しいです。いずれにせよ、求められるレベルの高さを感じました。