ゔぇにおの日記(仮)

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【今週のお題】二軍のTシャツばかりを着てしまう

今週のお題「二軍のTシャツ」

 

 着る物に特段のこだわりが無い私でさえも、服を選ぶときは真剣ですから、好きになるTシャツはありますし、お気に入りを着た日は気分が上がります。

 

 しかしTシャツの命は脆く、儚いです。着ているうちに襟は汚れ、洗おうと思えば首元が弛み、色味は淡く移ろいます。しかも、Tシャツとの出会いは一期一会です。来年にはもう、同じTシャツには巡り合えません(少なくともUNIQLOで安売りしているものはそうです)。つまりTシャツを着るということは即ち、別れの瞬間に向けて時計の針を進めることと同値です。

 

 Tシャツが内包するこの刹那的な性質が故に、お気に入りのTシャツを着るということが私にとってあまりにも特別なことになってしまい、日常からかけ離れてしまいました。別れが惜しいあまりに、普段はお気に入り以外の、いわゆる二軍のTシャツばかりを着てしまいます。

 

 二軍のTシャツに遠慮はいらないので、とても扱いがラクです。二軍ならランニングに着てしまってもいいですし、カレーうどんだって豪快に啜れます。道に血を流して倒れている人がいれば、破ってその傷を庇うことだってするでしょう。二軍のTシャツは日常とともにあり、私に行動力と勇気を与えてくれます。

 

 そうなってくると、私はもはや何をもって一軍と呼ぶべきか分からなくなってきます。私は今まで、格好いいと思うTシャツを一軍としていましたが、その格好良さ自身がTシャツ本来の“ラクに着られる”という機能を失活させて、ローテーションの外に追いやってしまいます。確かに着ると気分が上がりますが、ローテーションから外れた服を一軍と呼ぶのには、少々違和感を覚えます。

 

 『一軍』、『二軍』という言葉を改めるとしたら、それぞれ『恋人』、『親友』というとわかりやすいかもしれません。恋人と一緒にいると気分が上がりますが、恋人には何かと気を遣うものです。これは、私が今まで一軍と呼んでいた服と似ています。対して今まで二軍と呼んでいた服は、さながら日常を共にする、気の置けない親友のようです。

 

 

 

『眠れる森の美女』と『マレフィセント』はなぜストーリーが大きく異なるのか

『眠れる森の美女』と『マレフィセント』は、時代や登場人物、舞台のほとんどを共有しながらも、ストーリーないし迎える結末は全く異なります(ここでは『眠れる森の美女』は、シャルルペローの童話ではなくディズニーのアニメ映画を指すものとします)。

 


派生作品のストーリーが原作と異なること自体は珍しいことではなく、むしろ原作ファンを飽きさせないための工夫として設定や結末に変更が加えられることの方が多いように思います。

 


しかし、『眠れる森の美女』における『マレフィセント』は、単なるバージョン違いではなく、ストーリーの相違には意味があるはずです。というのも、ストーリーが異なるということ自体が、『マレフィセント』の冒頭とラストシーンで、オーロラの口からほぼ明示的に語られているからです。つまり、『マレフィセント』の世界に『眠れる森の美女』という物語が存在しているということです。

 


私は、『マレフィセント』が真実で、『眠れる森の美女』は王国側に都合の良いフェイクだと解釈しました。結局のところどちらが真でどちらが偽なのか(そもそも両方が偽なのか)、確実に判断する手立てはないのかもしれませんが、『マレフィセント』の方が出来事の描写が詳細であることや、『眠れる森の美女』に不自然なシーンが含まれることから、このような判断に至りました。その具体的な根拠を、2作品で相違する点を洗い出しながら説明してみようと思います。

 

まず、物語の始まり方からして大きな差があります。

マレフィセント』では語り部が物語の世界へと導いてくれます。のちにその語り部こそがオーロラであるとわかり、『マレフィセント』の物語に信憑性を与えています。

対して『眠れる森の美女』は、豪華な装丁の本が開く演出から始まり、その中に物語の世界があります。豪華な装丁といっても、我々が書店や一般の図書館でお目にかかれるようなものではなく、宝石が埋め込まれているなど、常軌を逸しています。従ってこれは、人間の王国の公式の出版物であると推測できます。

 


その豪華な本にはステファンとマレフィセントの関係性は一切描かれません。ステファンにとってのマレフィセントは若き日の恋人というだけでなく、かつての侵略の対象であり、彼女の翼をもぎ取った過去まであります。事実だとしたら、ステファン本人に留まらず、国のイメージをも大きく揺るがす事案です。

 


さらに、ストーリーに差異がある箇所には、(当然といえば当然ですが)マレフィセントの印象に関わるシーンが多いです。オーロラに掛けた呪いは、『マレフィセント』では(死んだように)深い眠りにつき、真実の愛のキスで目覚めるというものでしたが、『眠れる森の美女』では死ぬ呪いになっていて、メリーウェザーがそれを深い眠りに変更し、真実の愛のキスで目覚めるという条件を付与しました。後者の方が、マレフィセントに対して、より残忍な印象を受けます。

 


マレフィセント以上に印象が変わるのがステファンです。『マレフィセント』では娘に呪いをかけたマレフィセントに怒り狂い、彼女を抹殺するために挙兵したり、鍛冶職人を武器製造のために休みもなく働かせ続けるなど、暴君と化していく様子が描かれています。一方『眠れる森の美女』ではそういった描写は一切ありません。娘に呪いをかけられたシーンでも、娘の帰還が目前に迫ったシーンでも、非常に落ち着いた印象を受けますが、こちらの方がむしろ不自然です。

 


3人の妖精がオーロラを育てるに至る経緯も、微妙に異なります。『眠れる森の美女』では、妖精たちが自発的に、人間に扮して森の中でオーロラを育てることを提案しましたが、『マレフィセント』ではステファンが妖精たちにオーロラを預け、妖精たちが人間に変身することを思いついたのはその後のことでした。前者は妖精たちに娘を託したような印象ですが、後者は娘のことを丸投げしているように見えます。

 


このように、『眠れる森の美女』はステファンの印象を良く、マレフィセントの印象をより悪く描いているように思われます。そのため『マレフィセント』の物語を知ってしまうと、人間の王国にとって都合のいいように捏造されているように感じてしまいます。

 


では、『眠れる森の美女』はいつ誰が書いたのでしょうか。私は、ステファンが、発狂してからオーロラが深い眠りについてしまうまでの期間に描いたものだと考えています。もちろん後に王国の別の人間が編集した可能性は高いですが、ステファンのマレフィセントへの後ろめたさや怒り、オーロラの生存への希望が、『眠れる森の美女』を作り上げたのだと思います。

 


私がそう考えた理由としては、前述したようなステファンやマレフィセントの印象の違いもありますが、リア王妃の生死が異なる点が主です。『眠れる森の美女』にはリア王妃が城に帰還したオーロラを抱きしめるシーンがありますが、『マレフィセント』ではオーロラの帰還を待たずして亡くなっている上に、このことをステファンは聞き入れず無視したような描写があります。ですから、ステファンがリア王妃の死を認めないまま『眠れる森の美女』を執筆した結果、リア王妃が生存したまま登場したのだと考えています。

 


そんな状態のステファンが書いたからか、『眠れる森の美女』には不自然な描写がいくつかあります。

まず、マレフィセントが城に現れオーロラに呪いをかける動機ですが、「式に呼ばれなかった腹いせ」というのは明らかに軽薄で、不十分です。さらに、先にも触れましたが、そのときのステファンの落ち着きようも不自然です。

それから、オーロラの16歳の誕生日の前日、まだオーロラが無事に帰ってくるのを確かめる前に、浮かれ切って隣国の王と飲んだくれるのも、父親の態度として共感し難いものがあります。嬉しいのはわかりますが、まだ無事に帰ってくるとは限らないわけですから、16年越しの娘との再会の前日こそナーバスになりそうなものです。

マレフィセントが変身したドラゴンの非力さにも違和感を覚えました。これに関してはマレフィセント自身がドラゴンとしての動きに不慣れだった可能性も考えられますが、あまりにも見掛け倒しで拍子抜けしましたし、マレフィセント本来の恐ろしさから考えると変身する意味が感じられませんでした。

 


以上が、私が『眠れる森の美女』をフェイクだと考えた根拠です。

メタ的には、『眠れる森の美女』は『マレフィセント』よりもずっと前に制作されていますし、ステファンの妄想日記という裏設定はもちろんないです。間違いなく素敵なお話ですし、設定が甘いだのあのシーンがおかしいだの言われる筋合いは、本来ありません。

しかし、『マレフィセント』は『眠れる森の美女』の“粗”を上手に利用して、その世界を丸ごと乗っ取ってしまった悪魔的な作品だと、個人的には感じました。

 

 

 

眠れる森の美女(字幕版)

『老人と海 』感想

ヘミングウェイ老人と海を読んだので、感想を書きます。

 

簡単に言えば、巨大な魚と海の真ん中で格闘し続け、鮫にそれを食い散らかされながら持って帰るというストーリーです。背表紙に謳われる通り外面的な描写が徹底されているため、魚や鮫と格闘するシーンは特にスリルがあり、読む手が止まらない作品でした。

さらに極限状態における精神的なバイオリズムやアンビバレントな感情がリアルな独白で描かれていて、老人の苦しみや情熱、虚無感を追体験しているようでした。

また、その徹底した外面的描写により自然を正確に描こうという試みを感じ取りました。常に極限を生きる魚や鮫と対等な立場に置かれた老人を通して、その厳粛さに強制的に引き込まれるような感覚です。それゆえ港に着いてからの少年との会話では緊張から一気に解き放たれたような安心感がありました。

そんな厳しい自然の中でも、文字を通して浮かび上がる朝陽や夕陽、それを反射する水面が美しくもあり、印象深い作品でした。

老人と海 (新潮文庫)
 

 

 

映画『スーサイド・ショップ』 ネタバレ感想

希望を失った街の自殺用品専門店というテーマが非常に面白そうだったので見てみました。ミュージカルパートもあり、自殺という重たいテーマに対して映画全体の雰囲気が軽く、逆にそれが狂気じみていて少し怖かったですが、これにより同情や悲しみといった感情が中和されてフラットな視点から観られた気もします。

 

まず設定が非常に良かったです。自殺が大流行した街における、それに対する世間の冷たさ。さらには自殺自体がビジネスになってしまうということ。ifの世界のモデルとして秀逸であると感じました。

 

この映画では主に自殺用品店を営む一家に視点を置いていますが、死を売る彼らなりのポリシーや葛藤もよく描かれていると思います。彼らは実は狂人ではなく、むしろ彼らもまた世界に絶望した人たちであり、人を死なせる罪悪感を抱え消耗し、しかも客に死を提供するからには自殺できないというジレンマに閉じ込められています。(最後の部分はピエロのパリアッチの話に少し似ているなと思います。)

 

そんな中でのアランによる店への襲撃は一家にとって突然の救いとなりました。姉は自殺を考えていた男と恋に落ち、電撃婚約。まさに絶望の中から突然現れた幸福です。人生が幸せかどうかは最期までわからないというのがまず一つ、この映画の伝えたいことなんだと思います。アランが救った(もしくは彼のせいで自殺できなかった)人々がこの先幸せになるのかはわかりませんが、死んでいった人々は“最期まで”希望を見出せなかったというのはラストシーンで残酷なまでに強調されています。霊体に喋らせてまでというのはかなり露骨です。

 

ここまでだと月並みな物語ですが、この映画は違います。ラスト、ミシマがクレープ屋となった店に訪れた自殺志願者に毒入りのクレープを手渡すシーンには、私を含め多くの人が引っかかったのではないでしょうか。暖かい灯りに集う人々、一家の表情も明るくなりハッピーエンドというところでこのシーンが挟まるので、結局ミシマをどう見ればいいのか分からず困惑してしまいました。どうしてわざわざ水を差すようなシーンを入れたのか?実はこのシーンにこそ、この映画が伝えたいことのもう一つがあるのだと私は考えます。

人生が幸せかどうかは最期までわからないというのが一つ目のメッセージだと前述しました。確かに、その通り。しかし、追い詰められてどうしようもなくなってしまった人にただ「生きてればいいことある」というのはあまりにも無責任だと、そんな風にも思います。

クレープ屋に自殺用品を求めてやってきたあの男は、どうしても救えない人として描かれているのだと思います。陰気な街角に暖かい光が灯り、そこに集う人々が笑顔になり、自殺用品店がクレープ屋になってもなお致死毒を求めた彼に、「生きろ」と言えるかどうか。

ミシマ(とその一家)のポリシーは自殺用品店を営んでいた頃から「他人にとって良いことをする」と一貫しています。そんな彼だからこそ、あの男に毒クレープを渡したのだと思います。

逆に、彼らの客には本来死ぬべきでない人間が多すぎたとも言えます。普通自殺には逡巡がつきものですが、それが描かれている人物はほとんどいません(それこそミシマくらい)。自殺に対するハードルが極端に下がったのは、それがいわばブームとなってしまったこの世界特有の現象なのかもしれません。

ミシマは狂人ではないと先述しましたが、物語中盤ではノイローゼだったり怒り狂ったりと、かなりの異常さを漂わせていたので、それがラストで彼に対する不信感が募ってしまう原因かなと思います。

 

総括して、相反する2つのメッセージが込められた非常に考えさせられる映画だと感じました。

先ほど私自身も自殺をとめることを“救う”と形容しましたが、この“救う”という認識に潜むエゴにも斬り込んだ点が非常に良かったと思います。

スーサイド・ショップ (字幕版)

スーサイド・ショップ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

ヤング≒アダルト ネタバレ感想

 

「あの頃はよかった」というのは誰でもつい言ってしまうセリフであるが、その極端が主人公メイビスだ。今風の言い方に対応できなかったり、時代遅れの店や音楽を好むところにそれが顕著に現れるが、自分自身とも重なって正直辛い。映画のタイトルでもあり彼女の小説のターゲット層でもあるヤングアダルトというワードが、大人になりきれない彼女と痛いくらいよく合う。


バディはその好対照とも言える存在で、子を持つ父となった今、メイビスと付き合っていた頃とは大きく違う暮らしを送っている。たしかに自由はないのかもしれないが、確実に幸せな生活だ。変化を受け入れられたのか、そもそも過去に囚われていないのか。いずれにせよ、彼はメイビスがなり損ねた存在と言える。


マットは過去いじめの被害にあい、今でも後遺症を抱えて生きている“デブのオタク”。メイビスに憧れているが故か、彼女の支えとなる人物となる。心優しい男で、個人的にはかなり好きな人物だった。


そんな彼らのキャラクターから考えると、この映画は「過去とどう向き合うべきか」という問題をテーマにしているのだと思う。そしてこれには人それぞれの答えがあるのだと思う。絶対的な正解不正解はない。


メイビスは終盤で取り返しのつかない失態を起こしたが、これも過去に囚われた彼女が前を向くきっかけとなった。

メイビスの信者とも言えるマットの妹は“味方”ではあるがメイビスが変わるには“敵”とも言える存在であり、最後に彼女はそれに気づいて町を出た。過去との“決別”を選んだのがメイビスだと思う。

切ない物語だが結果的には過去を振り切ることができたので救われたんだと思う。


メイビスにとって過去が栄光なのに対し、マットにとっては暗闇である。しかし後遺症が忘却を許さない。過去を消し去れないという点で物語中盤のメイビスと共通するが、それとの向き合い方は決定的に違う。学校の森でメイビスと語り合う(?)シーンがかなり象徴的だ。


先の問いに対し決別という答えを選んだのがメイビスだったが、この答えを彼に当てはめるのは酷だと思う。おそらく彼は“どうにか過去と付き合いながら生きる”ことを選んでいる。


良い過去との決別を選んだメイビスと悪い過去と向き合い続けるマットという構図がなんとも遣る瀬無いが、両者とも現実と向き合うためにそれを選んだのだ。


自問自答になるが、先の問いに対し一般的な答えを与えるとするなら、「現実と向き合えるように過去ともうまく付き合いなさい」といったところだろうか。


内容は若干重たいがコメディ映画として作られており、クスッとするところはキチッと決めてくるので楽しく鑑賞できた。

 

ヤング≒アダルト (字幕版)

ヤング≒アダルト (字幕版)

 

 

 

『ジョーカー』ネタバレ感想

『ジョーカー』の感想を書きます。すごくいい映画でした。話題性も高く、劇場は大混雑でしたが、それによって生まれるフラストレーションもこの映画に関してはいいスパイスなのかも知れません。

 

感想

常体で書くとそれっぽく見えるということを発見したので早速やってみます。


我々がみなそうであるように、暴力的な感情それ自体は元々のアーサーにもある。仕事の失敗を責められた直後ゴミ山に当たり散らしたり、クビを告げられたときに電話ボックスを叩き割るシーンなどがそれを表している。しかしそれを見たものはおらず、それどころか彼はいつも笑っているように見える。そんなアーサーは気味悪くも思えるが、“本音と建前”といったように2面性を持つこと自体は現代社会で我々に求められるそのものであるから他人事と突き放せない。

 

『ジョーカー』はそんな彼の暴力的な側面が助長され顕在化していく話だと感じた。バイオレンス自体は突然生まれたものではない。

母親の(あるいはアーサー自身の)過去を暴いてしまい、唯一の“守るべきもの”だった彼女がそうでなくなった瞬間が“悪のカリスマとしての”ジョーカー誕生のトリガーだ。後に直接彼の口から語られるが、もう失うものがなくなり、現代風に言えば無敵の人になったのである。

彼の笑いは泣いているようにも見えるときがある。特に母親の過去を知ったときのアーサーの鼻水からは涙以上の悲しみを感じる。体質にもよるが、涙なら大笑いでも出る。


それ以前に地下鉄で3人撃ち殺したときの3人目に対する有り余る残虐さをどう捉えればよいのかはまだ考え中だ。必死さがそうさせたのかなとは思う。


燃えるゴッサムシティでジョーカーが立ち上がる終盤のシーンは、端的にいうと、かっこいい。このかっこよさは我々に潜在的に宿る悪を自覚させるためか幾分強調されているように思えた。


終盤にブルースの両親がピエロに殺されるシーンがあるが、これは『バットマンビギンズ』の冒頭部分とは微妙に噛み合わない。あくまでバットマンではなくジョーカーの物語だということだろうか。


見終わって、アーサーがジョーカーという恐ろしい怪物になるまでの道のりに大きなターニングポイントこそあれ、突拍子のない飛躍を見つけられなかった。そこがこの映画が恐ろしいといわれる所以だと私は思う。

勿論アーサーの人生は壮絶ではあるが、当時のゴッサムの状況からいえばジョーカーの登場は必然だったのだろう。

塔の上のラプンツェル 感想

実は結構前から見てみたかった作品です。映画とは関係ありませんがpop’n musicのRapunzelという曲が好きで、名前繋がりで気になっていました。映画を見る動機って意外とこんな感じのが多いかもしれません。

Dlifeでたまたまラプンツェル・ザシリーズというアニメを見たときのラプンツェルが可愛かったのも見たいと思った理由の一つです。ちなみに映画の続編という位置付けなので本当は映画を先に見たほうがいいみたいです。

 

結論からいうととても面白かったです。最高。超好き。

 

ストーリーはシンプルで登場人物の立場も分かりやすいです。なんなら冒頭でフリンが大枠を説明してくれています。大まかな展開は基本に忠実で、わかりやすい構図でありながら飽きさせない、老若男女問わず楽しめるストーリーと言えます。

ギャグも外さないし、物語に不合理な部分が少ないのでスッキリした気持ちで見終わりました。

 

それからラプンツェルが本当に可愛いです。

王女である自覚がないからか、ディズニー作品の他のプリンセスと比べても気取らない親しみやすさを感じます。

 

CGアニメの作品で、当然ながら画が非常に綺麗です。外の世界に初めて降り立ったシーンでラプンツェルと感動を共有できるほど美しかったです。音楽も最高。

 

ディズニーに限らず今まで見てきた映画の中でもかなり良い作品でした。非日常のありがたさというのを最近しみじみと感じております。

塔の上のラプンツェル (字幕版)
 

 

おまけ

老婆についての考察 ヴィランでありながらラプンツェルの育て親とも言える存在です。自身の不老不死のためにラプンツェルをさらい養っていたわけですが、そこに愛情はあったのでしょうか?
18年間塔の中に閉じ込めておきながらもラプンツェルをあそこまで明るく元気に育て上げたわけですから、何かしらの愛情があったと考えることもできます。
ただ、終盤でわかるように彼女はラプンツェルに生殺与奪(?)を握られていたわけです。立場上ラプンツェルが圧倒的に強かったんですね。愛情というよりも、根っこの深いところでラプンツェルに逆らえないという思いがあったのだと思います。わざわざ3日もかけて絵具を買いに行ったりとか。
彼女が生き永らえるためにはラプンツェルが健康であり塔の中の生活に不満を抱かない必要があったので、そこまで考えての教育だったのかなと思います。
終盤の「“今から”悪役になる」というセリフも、「今までもそうだっただろ!」と思ってしまいますが、彼女としては今までの行為は生きるためのものだったという認識なのかもしれません。