ゔぇにおの日記(仮)

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映画「Diner ダイナー」感想

鮮やかな色彩と藤原竜也に惹かれて見に行きました。予告編でもダイナーのデザインや演出が素敵で雰囲気がとても面白そうだったので、ワクワクしておりました。原作の漫画や小説を読むより先の鑑賞です。

 

独特な色彩が薄暗い中で美しくもドギツく、異常な世界観を際立たせていたように思います。また、衣装やメイクもド派手ですが、この色彩と演者の顔の良さによりよく馴染んでいました。どうしてもド派手なメイクだと“コスプレ感”が気になってしまうのですが、杞憂でした。特に真矢みき演じる無礼図(ブレイズ)が本当にかっこよかったです。

そして藤原竜也の演技も、期待通り最高でした。痛み、恐怖、怒りや愛を通じて、どこかぶっ飛んだ世界と日常を生きる我々とを強引に結びつけ、単なる傍観者でいることを許さないような生々しい演技だったと思います。

食事のための場所で殺し合いが行われるという設定もまた良かったです。うまく表現できませんが、食事という生きる為の行為と殺戮そのものが隣り合わせになった、生と死の狭間のような...。殺し合いそのものが生と死の狭間ではありますが、生命そのものの神聖さ、あるいはカニバリズム的な狂気(勿論カニバリズム要素はないです)が付加されたような印象を受けました。

 

独特な色彩や素敵な演出、ど迫力のアクションを是非劇場で楽しんで欲しい作品です。また、ストーリーにも考察の余地があり、人それぞれの解釈があると思います。

繰り返しになりますが、私のおすすめポイントは真矢みきです。カッコいいので是非見てください。

 

以下、疑問点や自分なりの解釈を折りたたんで記しておきます。原作から多少なり圧縮されているのか、不明瞭な点やすっと理解できない点もありました。

 

1.何がボンベロに身を呈してまでカナコを守らせたのか。
スキンの死からボンベロの感情が揺らいだように見えます。このシーンは彼女が目指すべき居場所を見つけ、覚悟を決めたシーンでもあります。彼女と歴代のウェイターを決定的に分けたのは恐らくここでしょう。ただこれがボンベロに響いた理由がよくわかりません...。彼女の料理に対する情熱がボンベロ自身の存在理由と重なるところがあったのだと考えてはいます。
2.デルモニコ殺しの犯人を記したメモはなぜ信用されたのか。スキンの残したこのメモが見つかってから、ボスたちの表情は一変し、コフィは大いに動揺します。このメモがここまでの影響力を持つのが不思議でした。特に決定的な証拠が明示されているわけでもない紙きれでなぜあれほど場が荒れたのか?コフィとしても言い逃れはいくらでもできたのではないかと思ってしまいました。
まずマテバがデルモニコを殺したのはあり得ないというコンセンサスと東西南北任意の組み合わせで談合が行われていないという前提が必要となってきますが、それらも明示されていません。
もしかしたら彼らは、真実にはあまり興味がなく手っ取り早く大ボスの地位を殺し合いで決めてしまいたかったのかもしれません。北の組織の準備の周到さからも伺えます。
3.ボンベロは生き残ったのか。
銃撃を食らいまくった上での最後の爆発からボンベロが生き残れたのかという疑問です。彼は最後カナコの営むグアナファトのダイナーに菊千代とともに表われますが、菊千代までもがあの爆発を生き延びられたのは不思議です。彼の生死により、私の解釈はさらに分岐します。
まず、普通に生存していた場合。無礼図が気絶する(死なない)程度の爆発なら彼らが生きていてもおかしくありません。この場合、本当に会いに行ったのでしょう。 ストーリーを通して、“自分の居場所”というのがテーマになっています。ぶっ飛んだ世界観ですがかなり現代的で普遍的な問題を提起しています。これに対するカナコなりのアンサーがこの映画の結末です。また、極限状態でボンベロがカナコに料理を伝授したシーンがそのまま活きてくる解釈でもあります。
次に、死亡していた場合。銃弾を浴びまくって上にあの爆発を生き延びるのは普通に考えるとタフすぎます。この場合、グアナファト自体が死後の世界のメタファーで、カナコも既に死亡していたとも考えられます。 カラフルな色彩はモノクロ人生からの解放、髑髏衣装の人々はそのままの意味で捉えることができそうです。カナコが明らかに仕事中なのにも関わらずカラフル集団が観光の案内を配るシーンは死が誰に対しても平等な存在であることを指すのかも知れません。またマテバの水死体に対するボートの女性の無関心も、カナコがこの時点で死んでいるならば説明できます。
ただこの場合“自分の居場所”というテーマが活きてこない感じがあり、あまりにも絶望的なシナリオになってしまいます。特に、ダイナーで働いている時点でカナコが死んでいたとする解釈は、全て夢オチということになり乱暴すぎます。考えすぎ感もあり、我ながらあまり正しくあって欲しくない解釈です。ただ、いずれにせよ上記のようなメタファーは活きているかもしれません。