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『眠れる森の美女』と『マレフィセント』はなぜストーリーが大きく異なるのか

『眠れる森の美女』と『マレフィセント』は、時代や登場人物、舞台のほとんどを共有しながらも、ストーリーないし迎える結末は全く異なります(ここでは『眠れる森の美女』は、シャルルペローの童話ではなくディズニーのアニメ映画を指すものとします)。

 


派生作品のストーリーが原作と異なること自体は珍しいことではなく、むしろ原作ファンを飽きさせないための工夫として設定や結末に変更が加えられることの方が多いように思います。

 


しかし、『眠れる森の美女』における『マレフィセント』は、単なるバージョン違いではなく、ストーリーの相違には意味があるはずです。というのも、ストーリーが異なるということ自体が、『マレフィセント』の冒頭とラストシーンで、オーロラの口からほぼ明示的に語られているからです。つまり、『マレフィセント』の世界に『眠れる森の美女』という物語が存在しているということです。

 


私は、『マレフィセント』が真実で、『眠れる森の美女』は王国側に都合の良いフェイクだと解釈しました。結局のところどちらが真でどちらが偽なのか(そもそも両方が偽なのか)、確実に判断する手立てはないのかもしれませんが、『マレフィセント』の方が出来事の描写が詳細であることや、『眠れる森の美女』に不自然なシーンが含まれることから、このような判断に至りました。その具体的な根拠を、2作品で相違する点を洗い出しながら説明してみようと思います。

 

まず、物語の始まり方からして大きな差があります。

マレフィセント』では語り部が物語の世界へと導いてくれます。のちにその語り部こそがオーロラであるとわかり、『マレフィセント』の物語に信憑性を与えています。

対して『眠れる森の美女』は、豪華な装丁の本が開く演出から始まり、その中に物語の世界があります。豪華な装丁といっても、我々が書店や一般の図書館でお目にかかれるようなものではなく、宝石が埋め込まれているなど、常軌を逸しています。従ってこれは、人間の王国の公式の出版物であると推測できます。

 


その豪華な本にはステファンとマレフィセントの関係性は一切描かれません。ステファンにとってのマレフィセントは若き日の恋人というだけでなく、かつての侵略の対象であり、彼女の翼をもぎ取った過去まであります。事実だとしたら、ステファン本人に留まらず、国のイメージをも大きく揺るがす事案です。

 


さらに、ストーリーに差異がある箇所には、(当然といえば当然ですが)マレフィセントの印象に関わるシーンが多いです。オーロラに掛けた呪いは、『マレフィセント』では(死んだように)深い眠りにつき、真実の愛のキスで目覚めるというものでしたが、『眠れる森の美女』では死ぬ呪いになっていて、メリーウェザーがそれを深い眠りに変更し、真実の愛のキスで目覚めるという条件を付与しました。後者の方が、マレフィセントに対して、より残忍な印象を受けます。

 


マレフィセント以上に印象が変わるのがステファンです。『マレフィセント』では娘に呪いをかけたマレフィセントに怒り狂い、彼女を抹殺するために挙兵したり、鍛冶職人を武器製造のために休みもなく働かせ続けるなど、暴君と化していく様子が描かれています。一方『眠れる森の美女』ではそういった描写は一切ありません。娘に呪いをかけられたシーンでも、娘の帰還が目前に迫ったシーンでも、非常に落ち着いた印象を受けますが、こちらの方がむしろ不自然です。

 


3人の妖精がオーロラを育てるに至る経緯も、微妙に異なります。『眠れる森の美女』では、妖精たちが自発的に、人間に扮して森の中でオーロラを育てることを提案しましたが、『マレフィセント』ではステファンが妖精たちにオーロラを預け、妖精たちが人間に変身することを思いついたのはその後のことでした。前者は妖精たちに娘を託したような印象ですが、後者は娘のことを丸投げしているように見えます。

 


このように、『眠れる森の美女』はステファンの印象を良く、マレフィセントの印象をより悪く描いているように思われます。そのため『マレフィセント』の物語を知ってしまうと、人間の王国にとって都合のいいように捏造されているように感じてしまいます。

 


では、『眠れる森の美女』はいつ誰が書いたのでしょうか。私は、ステファンが、発狂してからオーロラが深い眠りについてしまうまでの期間に描いたものだと考えています。もちろん後に王国の別の人間が編集した可能性は高いですが、ステファンのマレフィセントへの後ろめたさや怒り、オーロラの生存への希望が、『眠れる森の美女』を作り上げたのだと思います。

 


私がそう考えた理由としては、前述したようなステファンやマレフィセントの印象の違いもありますが、リア王妃の生死が異なる点が主です。『眠れる森の美女』にはリア王妃が城に帰還したオーロラを抱きしめるシーンがありますが、『マレフィセント』ではオーロラの帰還を待たずして亡くなっている上に、このことをステファンは聞き入れず無視したような描写があります。ですから、ステファンがリア王妃の死を認めないまま『眠れる森の美女』を執筆した結果、リア王妃が生存したまま登場したのだと考えています。

 


そんな状態のステファンが書いたからか、『眠れる森の美女』には不自然な描写がいくつかあります。

まず、マレフィセントが城に現れオーロラに呪いをかける動機ですが、「式に呼ばれなかった腹いせ」というのは明らかに軽薄で、不十分です。さらに、先にも触れましたが、そのときのステファンの落ち着きようも不自然です。

それから、オーロラの16歳の誕生日の前日、まだオーロラが無事に帰ってくるのを確かめる前に、浮かれ切って隣国の王と飲んだくれるのも、父親の態度として共感し難いものがあります。嬉しいのはわかりますが、まだ無事に帰ってくるとは限らないわけですから、16年越しの娘との再会の前日こそナーバスになりそうなものです。

マレフィセントが変身したドラゴンの非力さにも違和感を覚えました。これに関してはマレフィセント自身がドラゴンとしての動きに不慣れだった可能性も考えられますが、あまりにも見掛け倒しで拍子抜けしましたし、マレフィセント本来の恐ろしさから考えると変身する意味が感じられませんでした。

 


以上が、私が『眠れる森の美女』をフェイクだと考えた根拠です。

メタ的には、『眠れる森の美女』は『マレフィセント』よりもずっと前に制作されていますし、ステファンの妄想日記という裏設定はもちろんないです。間違いなく素敵なお話ですし、設定が甘いだのあのシーンがおかしいだの言われる筋合いは、本来ありません。

しかし、『マレフィセント』は『眠れる森の美女』の“粗”を上手に利用して、その世界を丸ごと乗っ取ってしまった悪魔的な作品だと、個人的には感じました。

 

 

 

眠れる森の美女(字幕版)